妄想徒然ダイアリー

映画と音楽とアレやコレやを

おじさんだって旅立つ日がある〜KIND OF MAGIC Vol.7 DOTAMA/眉村ちあき/新しい学校のリーダーズ @渋谷La.mama 雑感。

という事で待望の3マンです。

DOTAMAさんは初めてだけど眉村さんとのツーマンの評判を聴いて気になってる存在。新しい学校のリーダーズ駒場祭がファーストコンタクトで、それからなんか気になっていてアルバム聴いてすっかりトリコに。

という事でメチャクチャ楽しみで思わず半休取って参戦。

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なんと整理番号が3番。私もそれなりに色んなLiveを見てきたが入場列の先頭に立ったのは初めてだ。

そして最前へ。

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という事で写真はほとんど撮ってません。網膜へ焼き付けるつもりで臨みました。

 

新しい学校のリーダーズ

いやあ、とにかく素晴らしかった!

クラシックバレエでもない、ヒップホップダンスでもない、コンテンポラリーダンスでもない、そしてその全てであるかのような振付は時に演劇的であり。まさに青春がほとばしる。

また表情が良いんですよ。キレキレのダンス魅せる中で、一瞬とても切ない表情をするところがあったり或いはコミカルな顔やふと真剣な表情などがクルクルとその踊りのように変わる。

MCではSUZUKAが「入場してきた時(KANONがSUZUKA を肩車した状態)に実は腹にガス的なものが溜まってまして…」と話し始める。あのカッコ良い入場時にスカートの中でKANON が〝その音〟を聴いていたという。いやこのMCだけでこのグループが信頼できると確信しましたよ。

〝恋の遮断機〟でSUZUKA がMIZYUを一瞬突き放すような仕草を見せながらグッと引き寄せるという振りがあってあそこひっくり返るくらいカッコ良かった!てかカッコ良いとこばかりなんだけどね。〝キミワイナ’17〟でタッタッタッって駆け足になる振りも可愛い。〝雨夜の接吻〟では一転しっとりと。目の前でMiZYUちゃん(急に〝ちゃん〟付け)が歌っててかなりドキドキしました。

最後は〝エンドレス青春〟からの〝最終人類〟、あのSUZUKA ちゃんをみんなで抱えるパフォーマンスなんていうんですかね、良いですわ。さっきから良いとしか言ってないけど、まあ良いんだから仕方ない。という事でワンマン、行きますわ。

 

眉村ちあき

この日の衣装は上はリクルートスーツ風だけどボトムはバブバブちゃん状態。

f:id:mousoudance:20190309103256j:image準備の時の真剣な一瞬が今日も素敵。

この日もハイライトだらけ。最前で観る眉村さんは当たり前のように輝いていて眩しい。

新曲の〝Queeeeeeeeeen〟と〝開国だ〟がとにかく素晴らしくて。でちなみに特典会の時にこの新曲の素晴らしさをとりあえず伝えたんだけど眉村さんは〝開国だ〟の事だけだと思ってて「あれ?あと新曲やったっけ?」となって…。そうか彼女の中ではもう〝Queeeeeeeeeen〟は新曲ではないんだな、と妙に感慨深くなったり。やはりこの人はスピード感が凄い。2つとも転調のある曲でそれがまさに〝ナイル川〟のような振り幅を感じる。

CRAYON 〟と〝本気のラブソング〟の歌声がフロアに響き渡る瞬間は思わずのけぞるほどで一瞬意識が飛びそうになった。

〝本気の…〟で「これは、みんなの事本気で愛してるラブソングだからー!って言われたときはもう…。てへへ、って気持ちに。

エゴサしてたら、やって欲しいってリクエストあったからやるー」といって始めた〝おじさん〟がまた素晴らしく。終盤でのタメ、あれは何だったのだろう。感情を溜め込んだような沈黙の時間。ぐわーんと引き込まれる。

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f:id:mousoudance:20190309121849j:image当然ありました、サーフ。

f:id:mousoudance:20190309121804j:image開始早々に見捨てられたハイヒール。

途中、最前にいるチビっ子マユムラーから手作りのブレスレット?を貰ってたけど、それを付けた後に「あれー?何かお姉さんパワー出てきたぞー」と、まさに歌のお姉さん感がバリバリに発揮するところも心掴まされる。

 

【DOTAMA 】

全くの初見だが、いやはや楽しい。「オーイエー」とデッカく書かれたボードやツボをつくようなMCなど全く飽きさせない。

どことなくインテリヤクザ風なオーラ。「油断してたら斬られるな」という緊張感もありつつ親しみやすさもあって不思議な魅力がある人。ちなみに眉村さんも新しい学校のリーダーズちゃん達も観ていてDOTAMA さんの問いかけに元気に「はーい」と返事したりして、はい可愛い。

自らレーベルを立ち上げたとのことで、代表としての仕事も忙しい、という話。楽屋で仕事してると隣で代表取締役もPCカタカタカタカタカタカタカタとなっていた、というエピソードがじんわりと沁みる。

時折、最前で観ている客のスマホを取り上げ中身を見て苦笑いするというくだりには不思議な笑いのセンスと密かな狂気を感じる。

印象的だったのは〝リストラクション〟という仕事なんて、やめてやる!的曲の中でモデルガンを使いながらマイケル・ダグラスという単語が出てきたので、これはもしや

Falling Down - I want breakfast - YouTube

の事ではないか?と思い物販の時にご本人に聞いたらやはりそうだった。だだ「いやホントは映画ではウージー使ってるんですけど、今日はそれが用意できなくて…」とガンマニア溢れる回答が返ってきたのも好印象。わたしゃ詳しくないけど。『フォーリングダウン』、気になった方は是非。

 

終演後、新しい学校のリーダーズの物販でタオルとミニ腕章を、DOTAMA物販ではCDを購入。

その後に眉村さんのチェキに参加。

駆け出す新社会人って感じてしょうか?横向いてるなんて気がつかなかった。じゃばら?

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そしてこの日は初めて物販の〆まで残ってみた。最後、拍手を一回で止めるのに何故かツボったみたいで狂気を感じるくらい笑ってる眉村さん。いやー楽しそうで何より。

そのうち首を傾げて「え?たけし?」みたいになってタップ風ステップ、そしてドンドンパッ!ドンドンパッ!と ウィ・ウィル・ロック・ユー!状態になる流れに小さな感動が。

いやー今までチェキ撮ったらとっとと帰ってたけど〆まで見るとこんなに楽しかったのね。という事で本日も脳汁たっぷり頂いて渋谷の街をあとにするのでした。

アラレちゃんにはならない。【映画】『アリータ:バトルエンジェル』雑感。

中学二年生から感性は変わってない気がするが、それでもこの年になるまで色んな経験をしてきた蓄積というのもあって。

という事で観てきました。

『アリータ:バトルエンジェル』

f:id:mousoudance:20190303200705j:image映画『アリータ:バトル・エンジェル』予告【覚醒】編 - YouTube

10代の頃なら「アリータ最高!モーターボールのシーン、燃えるよね」とウキウキして劇場を出ていただろう。20代の頃なら「アクションは悪くないけどストーリーがねぇ…。ちょっと散漫な感じだし…。でもザパンとかのビジュアルはいかにもロドリゲスが好きそうな感じだよね。あとアリータの目がさあ…」と友達と飲みながらグダグダ言っていた気がする。

そして今はどうかと言えば、ほとんどイドの立場でアリータを見ていた。年頃の娘を気にかける親のように。

イドに命を吹き込まれたアリータが目覚め、世界の様々にその大きな瞳を輝かせて触れている彼女の姿はまさに子どもが成長する輝きにも似ている。

おそらくアリータの出自については薄々勘づいていたイドは彼女が〝覚醒〟しない事を願っていた筈だ。その〝身体能力〟を活かしてスポーツに興じるのも良いだろう。或いは将来自分の後継者として診療所を任せるのも良いかもしれない。いずれにしても殺戮や争いとは無縁な生活を送らせてやりたい。それがイドの求める〝平穏〟なのだろう。

それはもちろんエゴだ。亡き娘の名前を付け服を与えているのはイドの勝手な押し付けでしかない。アリータに取ってそれは強制的に与えられた役割であり本来自分の中にくすぶる欲求や本能は全く別なものだ。だからアリータはそんなイドに反抗し、ヒューゴと夜出かけて行き戦闘本能のままに暴れる。

これはまさに思春期の親子関係そのままだ。親が求める理想像に反抗し、本来の自分の姿を追い求めて成長していく。そして気がつけば娘は成長しているのだ。

そんな視点で見ているとヒューゴに惹かれていくアリータが心配でならない。「そんな男に引っかかって良いのか?もっと立派な青年はいないのか?」

と思ってしまう。もちろん恋する娘にそんな言葉は通用しない。親の言う事なんて聞きゃしない。そんな相手にこそ惹かれてしまうのだ。親が忠告しようとかけた電話はスルーしてもカレシのためなら仕事抜け出してでも飛んでいく。困ったものだね。

 

クリストフ・ヴァルツジェニファー・コネリーマハーシャラ・アリのオスカートリオ。中でもマハーシャラ・アリの存在感はやはり素晴らしい。ただ立っているだけで画面がキュッとしまるというか作品にある種の気品を与える。あとジャッキー・アール・ヘイリー!全然気がつかなかった。あと最後に出てくるあの人ね。

「俺たちの戦いはまだこれからだ」的ラストは続編含んでの事だろうけど個人的にはもう少し決着付けて欲しかったかな。

 

戦いの本能に目覚め兵士として活躍するアリータはもちろんカッコ良く、とてもワクワクさせられる。戦いのシーンはロドリゲスらしいギミックが散りばめられていて自分の中にある中学生マインドが大いに刺激される。

と同時にフト思ってしまう。一方ではアイアンシティの中で平凡な青春を謳歌するアリータの世界もあったのかと。そんな事を思うと少し切なくなる自分もいる。アラレちゃんのようにお転婆アリータちゃんがどこかで無邪気に跳ね回ってるといいな、と。

愚鈍さが牙をむく瞬間をウサギは見ていた。【映画】『女王陛下のお気に入り』

学生の頃、友達が「汚辱の上にこそ気品の美しさが際立つ」みたいな事言っていてその時は「はーそんなもんかね」くらいにしか思ってなかったが、年月を経て何となくその意見がしっかり来るようになった。

という事で観てきました。

女王陛下のお気に入り

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『女王陛下のお気に入り』予告編 - YouTube

いわゆるジャンルとしての〝英国王室モノ〟を思い描く(それが期待であれ、醒めた視点であれ)とノックアウトを喰らう事になる。

予告編などから想像する〝ワガママな女王に振り回されながらその寵愛を巡って繰り広げられる女の闘い〟というのもまた違う。そんな枠に収まるものでもない。

序盤、苦境からのし上がっていくアビゲイルを見せ、次第にアン女王の〝愚鈍さを帯びながらも気高いイノセンス〟に目を向けさせ、終盤にはサラのターンが訪れる…。3人のアンサンブルが絶妙のバランスで構成されており、観客に安易な感情移入の落ち着きどころを与えない。

アビゲイルやサラの策略はその狡猾さを含めて時にユーモラスに時にドライに描かれ、痛快さを感じる事もある。しかし、そんな政治的(かつ感情的な)駆け引きの諸々は最終的には無意味であって、その寄る辺なき感情の行先にある絶望と諦観と屈辱が混じったような顛末の複雑な締めくくりに激しく揺さぶられる。

 

なるほど言われている通り主役は3人であってそのアンサンブルがその前提であるとは言え、やはりオリヴィア・コールマンは素晴らしかった。気まぐれなように見えるアン女王の感情の変化は、彼女の表情の微妙な変化によって不思議な説得力を持つ。次第にその振る舞いが持つ愚鈍さはチャーミングなものに見えてくる。そしてそのチャーミングさはトラップでもある。

エマ・ストーンアビゲイルもその狡猾さが嫌味なく演じられていて好印象だったが、個人的にはレイチェル・ワイズのサラが良かった。感情表現のコントロールがやはり一流。序盤の圧倒的に裏ボス感、男装の格好良さ、そして終盤彼女に訪れる展開。やっぱこれサラ主役なんじゃね?と思われるシーンが多い。あのレースで顔半分隠した時の美しさ!

ヨルゴス・ランティモス作品は初めてだったけど、この人のテンポというかリズム好きかも。対象への距離感とかカット割りやオーバーラップという手法もさりげなく、でもこだわりを感じて良い。「ロブスター」と「聖なる鹿殺し」観なきゃ。

音について。銃声のズドンと腹にくる低音。人を叩いたり蹴ったりする際に強調される効果音。そして時折テーマのように流れるミニマルで不安をかきたてるような音楽…などなど。音に関してのこだわりも感じる。会話のシーンに次にくる射撃のシーンを大胆にオーバーラップさせて銃声が不穏なBGMのようになっているところ、好きだ。

さて。

アビゲイルとサラの〝冷戦〟に比べるとアン女王の振る舞いは微笑ましいほどだ。サラが言うように〝恋のさや当てゲームを楽しんでいる〟程度だ。謀略を巡らせ泥から這い上がろうと必死なアビゲイルに比べれば、なんと無垢でイノセントな事か。無垢でイノセント、そして愚鈍さでチャーミングさを感じさせていたアン女王であるが、最後に至って彼女はあるものを発見してしまう。その瞬間彼女の心に訪れた変化は計り知れない。彼女は静かに自らを奮い立たせ女王として振る舞う。そこにイノセントで無邪気なアンの姿はない。圧倒的な権力者としての女王の姿が立ち昇る。

その姿を目の当たりにしたとき、我々はただ平伏すしかない。こうべを垂れて杖代わりになるしかないのだ。その時のアン女王とその側にいた者の表情は静かにだが確実に我々の心を撃つ。

サングラスの奥のつぶらな瞳。2/25(月)寺嶋由芙 x フィロソフィーのダンス 『去りゆく君へ。ジャーマネ卒業 愛と激動の日々、ありがとうスペシャル!』@ 渋谷WWW X 雑感。

約半年前初めてフィロのスちゃんのリリイベ(タワレコ)に行った時になんか輩みたいな人いるなー古巣のオタクかなースタッフなのかなー、こわいなーと思ったのが初見さんとのファーストコンタクトだと思う。

という事で行ってきました渋谷WWWX。

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先着100名のコラボTシャツ&初見マネ囲みチェキ券はなんとか無事ゲット。入り口付近では有志のオタク達がサイリウムとグラサン(というか3Dメガネ)を配っている。ありがたく頂く。サイリウムの端っこがガムテで巻かれている。割れてるの補修してるのかな、くらいに思ってポケットに突っ込む。(後にこれが何かは判明する。)

ステージは寺嶋由芙さんから。ゆっふぃーさん丸っきり初体験なのですごく楽しみ!

にしてたら仕事用携帯がブルブルと振動する。ちょっと面倒なトラブルが発生したとの部下からの報告だった。普通だったら飛んでいくレベルであったが強引に遠隔操作で事態の収拾を図ることになった。コラボTシャツも来てるしもう後戻りは出来ないんだ!

という事でゆっふぃーさんのステージが殆ど観ることができなかったのが大いに悔やまれる。

最後に新曲「いい女をよろしく」が聴けただけでもお釣りがくるくらい楽しいステージであることがわかった。うーむ。また現場が増えてしまうのか?

間髪を入れずフィロのスちゃんたちの登場。

イッツ・マイ・ターン


、熱帯夜のように


、アイム・アフター・タイム


、とオタク心をくすぐるセトリで始まる。と思ったら初見マネがセレクトした〝今聴きたいフィロのス〟セトリとの事。いや、良いですねこのセトリ。

MCではメンバーが初見マネの思い出を語る。あんぬちゃんとおとはすはオーディションで選んでくれた事を感謝。おとはすは「階段で一緒に声出しの練習したりして、歌の苦手なわたしに力をくれた」と語る。マリリちゃんとハルちゃんは飲み友達としての初見さんの一面を。リキッドのワンマンの後に「凄く良いライブだったと泣いてた」とマリリちゃん。その時の動画消しちゃったとの事。(後でサルベージされた動画がマリリちゃんのTwitterアカウントに上がってました)

そんな思い思いのMCの後のヒューリスティック・シティ


→ライブ・ライフ


→ベスト・フォー


の流れは卑怯としか言いようがない。歌詞のひとつひとつが心に沁みる。〝君の好きなものに 君の前でなるよ〟とか、もうね。

そうそう。ちょっと話は逸れるけど、最近のフィロのスちゃんたちのパフォーマンス、一段ステージが上がった気がしませんか。いい意味で力が抜けているというか。動きのキレとかダンスのテクニックとかとはまた違うサムシングが加味されたというか。4人の踊りや歌はそれぞれの個性がもちろんあるわけだけどそれが絶妙な溶け合う感じだろうか。とにかく「あ。ステージ上がったな」という印象を持ちました。

 

さてアンコール。ゆっふぃーさんとフィロのスのコラボで「ぜんぜん」

ぜんぜん

ぜんぜん

  • 寺嶋由芙
  • J-Pop
  • ¥250
になんと初見さんも加わって大盛り上がり。照れながらも踊る初見さん、可愛いじゃねーか!よく見ればサングラスの奥のつぶらな瞳はちょっとジョン・ベルーシ感もなくもない。なるほど彼が愛されてきた事がわかる。

ステージの初見さんは照れ笑いしながら泣いていた。思わずもらい泣きをしそうなくらいだ。

同い年だというゆっふぃーさんのMCも良かった。大学卒業式に一人でいるゆっふぃーさんのところへチェキ取りに駆けつけたってエピ、なんかほっこりします。戦友、同士のような友情のようなものすら感じた。

最後は記念撮影。ここで渡されたサイリウムが煙草を模していた事が判明。ガムテは煙草のフィルターだったのか!そして3Dメガネをサングラス代わりにして撮影して終了。

実に愛に溢れたそれでいて爽やかで前向きなお別れの時間。良いステージだった。

そして囲みチェキ。「俺の事なんとも思ってなくても今日は俺の隣座ってもらうから」という初見さん。

わたしは半年足らずのお付き合いでしたが、現場に初見さんの顔を見かけると不思議な安心感がありました。お疲れ様でした。

最後にこれを。

だいすき

だいすき

  • 寺嶋由芙
  • J-Pop
  • ¥250

 

そして飛行機は飛ぶ。【映画】『ROMA』雑感。

開始の瞬間に「あ。これは傑作ですわ」と確信する作品というのが稀にある。例えば自分にとっては『ヒストリー・オブ・バイオレンス』がそうだ。冒頭の2人組の強盗のシークエンスだけで白飯5杯はイケる。

という事で観ました。

『ROMA』

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予告編→ https://m.youtube.com/watch?v=6BS27ngZtxg

そういう意味ではこの『ROMA』の冒頭もソレにあたる。

床を洗い流している(後の描写からそれは恐らく犬の糞だ)洗剤の泡を含んだ水がまるで海のさざ波のように流れている。音も波の音にしか聞こえない。このオープニングの美しさでこの作品の成功は約束されたと思う。

理論的には説明できない。見た瞬間「あ」と膝を打つその感覚は言語化が難しい。

そこから始まる物語は、住んだこともない国の聞き慣れない言語が飛び交うものだが、どこか懐かしさを感じる。70年71年というのが自分の幼少期に重なることが理由か?どちらかというと50年代の日本映画を観ているような感覚はどこから来るのか。もしかするとキュアロンは万人が普遍的な懐かしさを感じさせるような魔法を使ったのではないか?

田舎町の田園風景はまるで日本の田舎のような既視感があるが、もしかしたら他の人から見れば自分の馴染みのある土地の風景に感じているのではないか、とも思う。

横移動あるいはパンを多用した映像はキャラクターを冷徹に切り取ると同時に、時に異化効果を生み出す。邸宅の中で描かれる奥行き、山火事のシーンやその後の焼け野原の美しさ、カニのオブジェの違和感…etc.

そしてクライマックスの海の場面、あの波の圧力。色んな意味で一体どうやって撮ったのか。波にのまれる中で不穏な空気を帯びていく、あのゾクゾクする感じを生み出すのはなかなかできることではない。

 

クレオを演じるヤリッツァ・アパリシオがとにかく素晴らしい。多くを語らずしかし愛嬌もあるその姿は愛らしく親近感を抱く。と同時になにかを見据えるような瞳を見るといい。ある種の虚無感を帯びたその眼差しに何故か心奪われてしまう。

そんな彼女が絞り出すように心情を吐露してしまうあの場面には思わず泣かずにはいられなかった。海辺でクレオを中心に肩を寄せ合う姿は家族の再生のようでもあり、自分たちを捨てていった夫や父親によって穴の空いた部分をクレオによって埋めようとしているように見える。

一方クレオもまた海の中から戻ってくる事で自身を救済したのかもしれない。〝傷付き喪失してしまった何か〟に向きあい自分を再度生き直す必要が彼女にはあったのだろう。そうしなければ自分の身体がバラバラになるかのように。

旅を終え自宅へ戻った家族とクレオは空っぽになった部屋で再び日常を歩き始める。

クレオはいつものように洗濯を干すため屋上へ向かう。ただ違うのは、冒頭で床面を見つめていたカメラは最後に空を見上げていることだ。

そして僕は途方に暮れて君に電話をかける。【映画】『ギルティ』雑感。

ワンシチュエーション、ワンアイディアから生まれる斬新な作品は過去にもあって、ごく最近で言うと『サーチ』、ちょっと遡ると『リミット』映画『[リミット]』予告編 - YouTubeなどがある。

という事で観てきました。

『ギルティ』

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予告編→ https://youtu.be/bocuEY3Itsc

 

いわゆる〝事前情報なして観るべき映画〟〝語るのが難しいからとにかく観て〟系の映画で、実はこの惹句こそがある種のネタバレであって、「最後のドンデン返しがあるんだけど、言えないんだよねー」って言う事自体が既にネタバレだろ!というこの矛盾というか…。

だから気になる人は予告編だけ観て映画館へGOして下さい。

 

舞台はデンマークの緊急コールセンターのみで進む。オペレーターであるアスガーが受け取る電話或いはアスガーが架ける電話の通話のみでストーリーが構成されている。事件は全て電話の向こう側で起きており、声だけで年齢性別その他を判断するしかない。

声やクルマの音、扉を開ける音、足音、何かを探る音、息遣い…などなど。我々の印象は巧みに誘導されストーリーを紡ぎ出す。そういう意味では主人公アスガーは〝信頼出来ない語り手〟の役割を担っており、この作品は叙述トリック的な仕掛けを生み出す。

しかし、そう言った仕掛けは実はそれほど重要ではない。何となく途中から展開の想像はつかない訳でもない。逆に言えば、仕掛けのトリッキーさだけでは人を惹きつける事は出来ないはずだ。

この作品が90分間観客の緊張を維持し、サスペンスに引き込まれていくのはやはりアスガーの背後にある物語の存在だろう。冒頭の会話のやり取りから彼が何らかの処罰を受けてこのコールセンターに来ている事、明日免責に関する聴問会が開かれる事が推察される。そのストレスからだろうか手は震え、ぼうっとしてしまう事もあるようだ、

そんな彼が偶然受けた緊急コール。次第に事件解決に職務の権限を超えてまで取り組むようになったその動機は明確にはされない。

刑事としての使命感もあったろう。あるいは別れた妻(子供の存在は不明だがあるかもしれない)への贖罪の気持ちがあったかもしれない。いずれにせよ事件の解決へのめり込むアスガーは自ずと自分の過去へ向き合わざるを得なくなる。

やはりここにも赦しと救済の物語があったのだ。

アスガーの行動は果たして英雄的だったのか、単なる有難迷惑だったのか。アスガーは誰かを救ったのか、それとも誰かを傷付けてしまったのか…。アスガーはこの夜、自分と向き合いうことで過去の〝罪〟の贖罪が出来たのだろうか。何かに赦されたのだろうか。

わからない。わからないがアスガーの魂は救われた気がする。少しだけ。

さて。最後にアスガーが電話をかけたのは…誰だろうか?

 

おまけ アスガーが炭酸錠剤を水に入れて飲むシーン。タクシードライバーオマージュだろうか?

 

 

『トクサツガガガ』にガガガな僕ら。

小芝風花ちゃんがこれほどコメディエンヌのセンスを持っているとは、という驚きと喜びがまずあって。NHKのドラマ『トクサツガガガ』は初回からわたしの心を鷲掴みにした。そして気がつけば原作本を買い揃えていたのです。

ドラマホームページ→ https://www.nhk.or.jp/nagoya/gagaga/

 

誰もが一度は目にした事があるであろう特撮ドラマ(ここでは戦隊シリーズがその中心だが)をテーマに持ってくる視点や特撮に限らずアイドル、映画、音楽などなど〝好きなもの〟がある人/オタクへ突き刺さるストーリー展開。そして主人公の仲村さんを始め、吉田さんや北代さんといったキャラクターも魅力的で読めば読むほど観れば観るほどハマっていく。

原作を読んだ後にドラマを観ると特撮ヒーローの再現度の高さに感心する。かなり気合が入っていてこういう作り手の熱量がまた観るものの心を動かすのだろうね。北代さんを演じる木南晴夏さんのハマり具合もまた。

 

自分はいわゆる〝特オタ〟ではないが、そんなわたしがこの作品にハマっていったのは、おそらくそこに〝好きなモノへのアンバランスな愛情 〟が描かれているからという気がしている。

映画でも音楽でもアイドルでも、自分の好きなモノに対して我々は愛情を持っている。当たり前だ。しかし同時にその愛情を無自覚に表明する事への後ろめたさ…というより〝ためらい〟…のような感情を抱いている。これは多かれ少なかれ誰もが共感出来る事ではないだろうか。

その〝ためらい〟にはいくつか理由があるが、1番大きなものは「いい年をして(或いは男の子なのに/女の子なのに)そんなものを好きになって」といういわゆる世間の目が強制/矯正してくるものから自分がはみ出ている事への後ろめたさだと思う。

主人公である仲村さんは母親との折り合いが悪い。「もっと年頃の女の子らしく」「早く結婚して孫を」というような母親(つまりは社会)が強制/矯正してくるロールモデルへの反発がある。実は母親の姿は反転された仲村さん自身の姿でもあるのだが。

 

そういった母娘のやり取りはカジュアルにコメディタッチで描かれているが、妙なリアリティを印象づける。わたしは年頃の女の子でもないし親から結婚を急かされているような立場でもないが、それでも仲村さんには共感できる。世間が当てはめようとする枠から自分が外れている事を自覚し、その枠に押し込めようとする力に反発し、と同時にその〝枠〟にハマる事が楽な道である事も分かっている。そんなアンバランスな感情は誰しも秘めている事ではないか。多かれ少なかれ。

仲村さんは特オタである事を隠している。会社の中でも特オタであることは表明していない。これは前述の〝後ろめたさ〟も理由であるが、更にステレオタイプのオタク像に当てはめられる事への恐怖心があるのではないか、と思ってみたり。

わたしはカープファンで野球観戦の時にはユニフォームを着て応援しているが、球場への行き帰りの時はユニフォームを着ていない。あくまでニュートラルな状態で球場へ向かう。好きなミュージシャンやアイドルのライブに行く時もそうだ。Tシャツやグッズは極力見えないようにしている。電車の中で読んでいる本を知られるのも避けたい。自意識過剰といってしまえばそれまでだが、それでも自分の内面が無防備に意図しないところで探られる事への抵抗があるのだろう。

もちろん球場ではユニフォームに身を包み、応援歌を歌い、選手に惜しみない声援を送る。Liveではタオルを回し場合によってはサイリウムを振りコールをする。現場ではそうである自分を全面的に肯定し楽しむ。そしてまた帰り道ではユニフォームを脱ぎ、ツアーTの上にシャツを羽織り、タオルをカバンにしまってステルスモードになる。

では自分を孤高の存在にしたいのか、と言えばそんなこともなく。やはり他者との繋がりを求めている部分はあって、だからこそSNSをやっていたりブログを書いていたりするのだろう。胸元から分かる人には分かるようにTシャツをのぞかせていたりする。そうまさに〝イクトゥス〟のように…。

もう一つ〝後ろめたさ〟で言うと、「そこまで自分は熱入れてるのかな?全部の試合に通っている訳でもない。作品を全て網羅している訳でもない。もっともっと熱量の高い人がいる。その人達に比べれば…」という感情から来る後ろめたさ。

我ながら面倒くさいこと言ってるな、と思う。〝何も考えずに好きなものに飛び込んで行けば良いじゃないか。そんなのエクスキューズにするな。〟もっともな意見です。しかしまあ、このメンドくささがオタクがオタクである所以でもあり、そんなメンドくささを描いているからこの作品に共感できるのかな、とも思う。そんな自分を全肯定はしないまでも、少し軽く肩の荷を下ろしてくれるようなところがこの作品にはあるとも思う。

あとは身も蓋もない事を言うとやはり吉田さんや北代さんのような存在が欲しいんだね。映画の感想めいたものをSNSに上げたりブログに書いたり、あるいは誰かのポストに〝いいね〟やリプライする事でその体験を一定レベルで共有してはいるが、やはり対面で感想を言い合いたいという欲求はあって。作中で仲村さんや吉田さんが「あれ見ましたー?」と言いながらあーでもないこーでもないと言っている姿はやはり理想としてある。若い頃にはそんな友人達もいたが、だんだんとそういう人も機会も少なくなった。10代や20代の頃、居酒屋で安いサワーを飲みながら映画や音楽について語っていたあの感じ。「あのローラ・ダーンの泣き顔が…」とか「フェリーニってぶっ飛んでるよね」とか言うことを何の保険も留保もなく語っていた時間。『トクサツガガガ』を読む/観るという事はその代価行為なのかもしれない。仲村さんや彼女が置かれている環境に自分を投影しているのかもしれない。そういう意味ではオタクのファンタジー物語なのかもね。

だから何が言いたいかって言うと、わたしも梅干しサワーとか飲みながら映画や音楽なんかについてグダグダと語り合いたいな、って事です。『トクサツガガガ』にも描かれているような〝ライブ〟な感想の言い合い。何だったら駄作上映会やりたいよねって話です。では。

あ。あと北代さんLOVEなんで。