妄想徒然ダイアリー

映画と音楽とアレやコレやを

心で叫べ!愛は届く、とあなたは言うのです。眉村ちあき全国ツアーCHIAKI MAYUMURA Tour”ima” at F.A.D YOKOHAMA 雑感。

凄くナイーヴな言い方になってしまうけど、やはり世の中がこんな状況になると「愛はどこへ行ってしまったんだ」という話にもなってしまう。もちろん、社会の成り立ちは単純なものではないし、色んな要素が絡み合っているのは承知しているけれど。

CHIAKI MAYUMURA Tour”ima”

 

f:id:mousoudance:20220305165859j:image

ライブハウスで眉村さんを観るのもいつぶりだろうか、思わぬ良番で最前ではなかったものの前方に位置取ることが出来た。

いやー楽しかったですね!ハッピーとはこのことか、と。

LIVE中は脳内にアドレナリンがドバドバ分泌されてマスクをしていたから良かったものの、マスクがなければかなりとんでもない笑顔になっていたのではないだろうか。そして会場に来ている人間をひとりひとり見つめる(比喩ではなく本当に)眉村さんの姿を眺めていると、表現し難い感情が身体の中から湧き起こってくるのです。そうやって楽しい記憶だけが残り、相変わらずセトリは記憶からこぼれ落ちていくけれど、思いつくままに。

新しいアルバムの名前を冠したツアーなので当然の事ながらそれらの曲が中心となる。それらにライブの定番曲達がバランス良く配置されていたという印象。「モヒート大魔王」に始まり大大円の「旧石器PIZZA 」まで見事にパッケージされたセトリではなかったでしょうか。

見どころを挙げればキリがない。

序盤の「この朝を生きている」でいきなりトラックが止まり、しばらくアカペラで歌い続けた場面。「こういうのがライブの醍醐味だよね」と思いつつ、更にもう一度初めからやり直してまるでタイムリープしたかのようにフリの台詞までさっきと同じように再現する様子を観て「眉村さんのライブに来ている」という実感がグッと強くなった。

久しぶりにライブで観る「ブラボー」は良いものだなあ、と思いつつ、「なまらディスコ」のかっこよさにやられる。f:id:mousoudance:20220305223319j:image
f:id:mousoudance:20220305223316j:image

この曲自体がとても素晴らしい完成度だったんだけど、こっからシームレスに「東京留守番電話ップ」に繋がったところ、のけぞるくらいにメチャクチャクールでしたね!

あの、今回のアルバム『ima』を聴いて思ったのは洗練と失われない仄かな狂気、って事だったんですね。洗練にはネガティブな意味を帯びる事があって、それをポップ化と言い換えても良いけれど、要はインディーズからメジャー路線になる際に、大衆化する事で独特のオリジナル性がなくなってしまうんじゃないか、という危惧について語られる事が良くあります。眉村さんについても同じような言説を見た事がありますが、今回のアルバムを通して聴いてみると洗練とオリジナリティ溢れる狂気のようなものが絶妙なバランスで成り立っていると思ったのです。

今夜のLIVEもまさにそうで、新しいアルバムの洗練と過去の定番曲の爆発するような個性がシームレスに繋がっていく様は見事だった。

「寝かしつける」のアルフォートの袋を使ってトラックを彩るやり方も最高だけれども、後半のギターソロ!あのアレンジ、カッコよすぎではないですか?

f:id:mousoudance:20220305233253j:image
f:id:mousoudance:20220305233250j:image

あと個人的にライブ中の眉村さんで好きなのが準備しているときにふと見せる真面目な表情なんだけど、今夜も「インドのリンゴ屋さん」(楽しかったなぁ!!!)から「天才論」(これまた素晴らしい!)に移るほんの一瞬にそんな表情を見せてもらった。※いつものように撮影許可はあったけれど、結局は自分の網膜に焼き付けてしまう事になる。やがてそれも薄れゆくけれど、それがLIVEって事じゃないの?なんて。

本編ラストは即興ソングから始まったので「ピッコロ虫」が来ると構えていたけれど「Lovely days」だった。冒頭から歌詞を忘れる眉村さんだったけれど、個人的には「あれ?この歌詞の続きなんだっけ?〇〇〇〇?そんな歌詞わたしが書く訳ないか」といってたところに不思議な感心をしたりして。

それにしても「旧石器PIZZA 」の大団円感、アンセム感は何なんでしょうか。イントロの〝ドンルク風味〟も相まってとてつもない高揚感がある。最初、アコギを抱えていた眉村さんが曲が始まった途端にバッとギターを降ろして何かが憑依したかのように踊りまくる姿を観ているだけで、身体の中の何かが浄化されていく気すらする。

圧倒的なライブ空間を堪能した2時間だった。声も出せないわたし達だけど、「大丈夫。心で叫んでも伝わってるから」という眉村さんの言葉通り、横浜にはこの2時間の間に愛が、ビゲスト•ラブが溢れていたはすだ。

わたしはこのツアー、この初日にしか参加できないけれども、改めて眉村さんのライブの素晴らしさを再認識した。そして、帰りに思わず買ったアルフォートを齧りながら、「甘さだけでない微かに感じる塩味が良いんだよなー」と思う夜でもあった。だから何だ、という話だけど。

わたし、オカシイ子なんかじゃない。【映画】『ゴーストバスターズ/アフターライフ』雑感。

ホームステイから帰ってきた同級生が「いや、アメリカは今コレよ」と言って着ていたのが例のロゴマークの入ったトレーナーだった、という鮮明な記憶。そして久しぶりにオリジナルの『ゴーストバスターズ』を観直してみると、思いの外テンポがのんびりとしていて、あれ?こんな展開遅かったっけと思ったり。あるいは、当時マシュマロマンが出てきた時の場内の笑い声が蘇ったり蘇らなかったり。
映画『ゴーストバスターズ/アフターライフ』予告編 - YouTube

ゴーストバスターズ/アフターライフ』

f:id:mousoudance:20220219133834j:image

と、そんな感じで今作に臨んでみた訳だけれど…いやー良かったですね。終盤の展開は、ある程度そうなる事が判っていたにも関わらず、思わず泣いてしまった。

わたしの大好物である赦しと救済の物語であり、また若者達が自己実現をする場を獲得していく成長ストーリーとしても心を撃つものだったし、更にハロルド・ライミスの不在、鑑賞直前のアイヴァン・ライトマンの訃報などが重なり気がつけば目を潤ませていた。

ジェイソン・ライトマン監督作では『ヤング≒アダルト』が大好きで、主人公の肥大した自意識と「だからってそう簡単に成長なんかしないよ」という達観が入り混じったシニカルさが大好物だった。そういった面でいえば、今作はややストレートな描写にバランスが取られていたような気がするし、何しろ父親を含めて先達が作り上げてきた映画史に残るマスターピースを引き継ぎ遺していこうという意思を感じる。その事にまたグッときてしまう、のは歳を取ったからだろうか。

フィービーはその立ち居振る舞いから、おそらくは学校(つまりは彼女が主に属する社会)では浮いた存在、所謂〝変わった子〟として生きてきた事が判る。自分がなぜこんな風に生き辛さを感じなければならないのか、という事すら考える事なくある種の達観の域にいるようにも思えるけれど、しかし自分の祖父が科学的探究心とそれに伴う使命(自己実現の場)を持って生きてきた事を知る事によって、フィービー自身も「わたし、オカシイ子なんかじゃない」と思えるようになる。このくだり、かなりグッときました。ポッドキャスト君も多分同じで、フィービーがやってくるまではきっとクラスでは〝浮いた存在〟だったのだろう。「ねえ、僕と実習パートナーにならない?」)

フィービーが自己実現の場を獲得していくと同時に、母親もまた自らの父娘関係を見直す機会が訪れるわけで、展開はある程度想像出来ていたけれど、そこで繰り広げられる赦しと魂が救われていく場面にはやはり心動かされてしまう。

そしてもうひとつ、引き継がれていくモノというテーマ。長い間、封印されてきたゴーストバスターズという行為(社会的貢献)が、プロトンパックとキャデラックはそのままの形で若者達に引き継がれる。それはオリジナルから40年近くて作られた続編という今作の立ち位置と同じに見える。自分のフィルモグラフィからすると異色とも言える今作にジェイソン・ライトマンが関わっているのも、少なからず継承という意味合いが当然強くあるはずだ。

だから〝ザ・視覚効果!〟(このニュアンス伝えるの難しい)といったゴーストの造形や美術が当時の質感そのままであるのは凄く正しい。ゴーザと門番、鍵の神といった構図がオリジナル版と全く同じである事も同様に正しい。だからこそ、わかっていてもあの場面に心踊り感動してしまうのですよ。

オリジナルキャストが(ほぼ)再結集しているのも嬉しい。中でも受付ジャニーン役のアニー・ポッツが中々良い役どころだった。イゴン/ハロルド・ライミスと今作を繋ぐ橋渡しのような立ち位置で、過去のシーンが使われるあるシーンが生み出す化学反応が素晴らしい。今回、オリジナル作を観直していて気に入った場面のひとつも彼女が出ているシーンだった(警官がリック・モラニスを連れてきた時の〝bringing off or picking up?〟「お届け物?それとも逮捕に?」と対応する場面。ジャニーンの魅力が詰まった場面だと思う)けれど、今作でも最後の最後に40年間の歴史を見つめ直し魂を救い出すようなシーンを担っていた。

という事で、先達のリスペクトと共に継承される物語が赦しと救済という要素とともに感傷を呼び起こす良い作品でした。そして電気ビリビリ罰ゲームを受けるビル・マーレイに、ここにも時代のアップデートが描かれていると感じながら頭の中で歌がグルグルしている。フユゴナコール、ゴーストバスターズ

メランコリアを遠ざけて。『ドント・ルック・アップ』雑感。

人類の滅亡というのは突然やってくるものではなくて、緩やかに終末がやってくる。なんて事を子供の頃に考えていたっけな、と。

『ドント・ルック・アップ』

f:id:mousoudance:20220211231658j:image

観たい映画はたくさん公開されているんだけど、何となく劇場に足が向かない。そんな時もある。という事でNetflixでこの作品を鑑賞。

アダム・マッケイらしいシニカルな視点とコミカルな描写が良いバランスを保っていて最後まで飽きさせない。キャストも豪華で主役級をこれほど集められるのもNetflixの資金力というところだろうか。

地球に迫ってくる隕石や惑星によって訪れる人類の危機は今までも何度か描かれているが、その度に、何らかの形で最悪の事態は避けられ人類はどうにかサヴァイブしてきた。基本的には今作もそのフォーマットに沿ってはいる。

しかし決死の覚悟で彗星に突撃するヒーローや人々を鼓舞するようなアジテーションをする大統領などは出てこない。大統領の優先事項は再選することであり、合衆国の国益を守る事だし、その為には世界的企業の言いなりにもなる。

それはディカプリオ演じるミンディ博士も例外ではなく、主体的ではないにしても、その主張は政治的に利用され自分自身も宙ぶらりんな立場に追い込まれていく。

一方でケイト・ディビアスキー(ジェニファー・ローレンス、流石でしたね。眉毛の小さな動きで心情を表現したり)は作中で最も事態の深刻さを感じ取っている人物ではあるが、社会的には〝異常者・異端者〟として扱われる。そればかりか家族からも拒絶されてしまう。そう考えれば、怒りに満ちて感情を剥き出しに主張していた彼女が達観を獲得していくのも致し方ない話だ。

ミンディ博士とケイト、そしてオグルソープ博士はその関係性を強くしたり弱くしたりしていくけれども、まさに空を見上げる事によって(ユールも加えて)ミンディ家と擬似的家族を形成していく事になる。

この最悪の事態に対して冷静に向き合っていくという終盤の展開に、わたしはラース・フォン・トリアーの『メランコリア』の事を想い出していた。絶望感と達観が同時に存在し、空に浮かぶ地球に危険をもたらす〝ソレ〟の禍々しさと美しさ。〝異常者・異端者〟こそが慌てふためく事なく淡々と〝その時〟を迎えようとしているその姿には説明しきれない感情が自分の中に湧き上がってくる。

果たしてその時、自分がどのような行動を取るかは確信がないけれど、何となくブリー(ケイト・ブランシェット)のように酒を浴びて全てを誤魔化しているかもしれない。

いや、やはりソレも違うような気もする。でもハッキリしているのは、少なくとも2万年後に目を覚ますような選択は、多分しない。どんな世界に連れていかれるのかコワイというのもあるけれど、二万年後の世界って最早それって死と同じだよね??

掲げよ、その手のひらを。1/30(日)新しい学校のリーダーズ『無名ですけど凱旋ワンマン〜ようこそ、スナックタイムへ Um-hum〜』@恵比寿LIQUIDROOM 雑感。

 

相変わらず仕掛かり中の仕事があり、悶々とした週末を過ごしているわけだけれども。そういう意味では日曜の18時はかなりダウナーな気分で迎えるのが毎週のルーティンになっている。その哀しさ。

という事で。

無名ですけど凱旋ワンマン〜ようこそ、スナックタイムへ Um-hum〜

f:id:mousoudance:20220130160955j:imagef:id:mousoudance:20220130172409j:image
客入れ曲のビースティボーイズ(エンドレス!)を聴きながらまったりと開演を待つ。
フロアには碁盤のように格子状の区分けがされていて、わたしはその一角に足を踏み入れる。スタンディングライブではもはや見慣れた風景となった。

昨年出演した海外フェス、Head in the Cloudsの映像がオープニングに流れて、感情が昂る。

「Pineapple Kryptonite」も早くも定番曲としての貫禄が出てきたというか、ユニーク(唯一無二という意味での)な振り付けと美しいコーラスとの化学反応が良い。これからの自己紹介曲としても凄く有効な一面もある。あれは曲前のアジテーションだったと思うけど〝嫌いなアイツに教えない〟を〝嫌いなアイツに見せつけたい〟とアレンジしたフレーズも妙に刺さってきた。続く「最終人類」でこの日のライブの成功は決まったと言いたい。

相変わらずLIVE中はドーパミンどばどば終わってみればセトリはぶっ飛んでいるので、断片的な記憶をかき集めて記録する。なので曲名や曲順などはかなりいい加減です。

新曲と既存曲も程よいバランスで、というかほぼ初見に近い新曲がまた良い。大体、出たばかりの新曲というのはどうしても馴染みが薄いので反応が今ひとつ、となりがちなんだけどそうならない。「CANDY 」の〝シュガーハイ、シュガーロー〟の部分も気がつけば手を上げ下げしているし、「Fantastico」のインド感たっぷりで、振り付けや歌にリーダーズらしさが詰まっている。

「恋文」「オトナブルー」からの穴野をしるこさんが登場したカラオケコーナーへの流れも決まってましたね。をしるこさん、全くの初見だったけれどドラァグクイーンとしての貫禄とオーラが圧倒的で、いやカッコいいパイセンですね。

f:id:mousoudance:20220130213853j:image

「どうにもとまらない」と「笑って許して」という昭和歌謡ど真ん中の選曲と新宿二丁目的な妖しさとがリーダーズに上手くマッチしていて、そういうテレビ番組があっても良いような気もしてくる。

「試験前夜」は相変わらずカッコいい。リズムとビートがドスンドスンと身体に響くその快感。叫べないのがもどかしいくらいに感情がぐつぐつと沸き立つ。途中歌詞が飛んだのはご愛嬌、というかそのパフォーマンスの激しさの証でもある。

「SNS24時」では写真を各自SNSへアップせよ、との指示があった。f:id:mousoudance:20220130220647j:image

動画も撮ろうとしたんですが、何しろこちらも踊ったりヘドバンしたりと忙しくとりあえず写真を。

「恋ゲバ」はLIVEで観るたびに新しい発見があって、というよりも多分観るたびにアドレナリンドバドバで記憶がぶっ飛んでるだけだと思うけど、終盤のSUZUKA対KANONのところで、後ろでMIZYU&RIN のお二人が〝見ざる聞かざる〟的なポーズしてるんですね。いままで気がつかなかった。

「透明ガール」を現場で観たのはもしかしたら初めてかもしれん。なんて思いながらしみじみとステージを眺めていたけれど、そっから「透明ボーイ」て!!バイバイをする手にも力が入ろうってもんですよ!わたし達の気持ちも夕暮れに溶けていく。なんて。

本編のラストは「Free Your Mind」で、新曲ホヤホヤと言っていいこの曲が、しかしエンディングを飾るに相応しいほどのパワーがあった。振りも楽しいし、曲のカッコよさもある。しかし、この曲の肝は何というか英語と日本語(とスペイン語)が混在した詩にあるような気がする。

踊れ、歌え、騒げ叫べ

ほら 解放だ

このストレートなメッセージを身体を動かしながら浴びることが、今わたし達には必要なのかもしれない。言語が何であろうと人々の心を撃つような不思議なパワーがこの曲にはある。と、そんな事まで考えてしまう。

アンコールは「Happy Hormones 」から。この曲も新曲ホヤホヤたけど、そんな事関係なくフロアはハッピードーパミンに溢れまくる空間になっていた。

そして、ラストは「迷えば尊し」だ。いつも通り青春とは老若男女関係ないというアジテーションとともに一斉に手をかかげる。個人的にはライブのラストを飾るアンセム感、手を掲げるという面でもPerfumeの「MY COLOR」と印象が重なる。

SUZUKAさんの「今日、ここで新しい学校のリーダーズを観た事が明日からの活力になるはず(大意)」というアジテーションが心に響く。

この夜、4人へ向けて掲げた手がフロア一杯に広がっている光景は、少なからず心身にダメージのあるわたしにとって欠くことのできない一瞬だった。その一瞬がわたしには必要だった。それを糧にして、明日からの生活を推進させる事が出来る。

そんな風な事を考えながらリキッドルームを後にしたわたしの脳裏に焼き付いているのはSUZUKAさんがどこかでやった〝発作からのISSA〟だったりする。

今夜は仕事の話はしないで。『ネクライトーキー×フィロソフィーのダンス 1/27(木)vanilla&soy sauce @ Zepp DiverCity Tokyo』雑感。

気がつけば1月も終わり。それなりに仕事も忙しくサラリーマン的には「呑気に休んでる場合じゃない」状態ではあるけれど、あえて呑気に休む。

ネクライトーキー×フィロソフィーのダンス vanilla&soy sauce

どちらがヴァニラでどちらが醤油かは判らないけれどフィロのスとバンドとの対バンに外れなしとの予感もあり、わたしの2022年フィロのス初めはこの現場となった。

ネクライトーキーは全くの初見となるので少し予習がてらApple Musicでランダムに曲を聴く。良いじゃないですか。毒入りポップキャンディ系が好きなわたしにはフィットしてくる。ちょとかまってちゃんにも通ずる感受性の高さというかナイーヴな攻撃性というか、チャットモンチーmeetsかまってちゃん(そう言われる事が幸福かどうかは分からないけれど)というか。うん、好きです。

f:id:mousoudance:20220127182523j:image

入り口でお目当てを訊かれるのも随分久しぶりな気がする。フィロソフィーのダンス)と書いてある紙コップに思わずドリンク代の600円を入れそうになるという小ボケかましてまったりと入場。

客入れの曲が普段と趣きが違う。気がする。

ネクライトーキー

いや、良かったですね。東海岸あたりのカレッジバンドのような佇まいと少し毒気のある歌詞はかなり好みのタイプ。

セトリはもちろんよくわかってないけれど、「こんがらがった」「大事なことは大事にできたら」がとても印象的で、上手く言えないけれど身体に沁みてくる。

曲と曲の繋ぎ目の独特の間、というか沈黙の時間もなかなかないくらいの長さで最初は少し戸惑ったけれど段々とその空間に馴染んでいく自分がいる。

その辺りはギターの朝日さんもMCで「お気づきの通り、我々はトークが下手で…」と自虐気味に話していたけれどその後に「今日は楽器を持ってきてるのでこれで皆さんを楽しませたいと思います」というフレーズを続けていて、不器用さと誠実さのバランスがわたしの心を突いたりして。機会があればまた違う環境で観てみたいバンドです。

 

転換の間にエビ中の曲が流れて思わず「お」と声を出しそうになる。選曲はおとはすさんでしょうか。知らんけど。

 

フィロソフィーのダンス

スクリーンが開いてフィロちゃんズが出てくる。あれ?フィロのスのライブ観るのいつ以来だっけ?去年のはすあんぬ生誕祭以来???

「オプティミスティック・ラブ」の高揚感から「ライブ・ライフ」の流れで、もう感情がミルフィーユ状態になっている。決して近い席ではなかったけれど、視線の先には奥津さんがいる、あんぬちゃんがいる、ハルちゃんがいる、おとはすがいる。声を出せないライブ空間にも慣れてきたけれど、「ダブル・スタンダード」の青い衣装に包まれた4人を目の当たりにして、〝嗚呼、やはりライブは良いなあ…〟と静かに興奮している。ライブこそライフであって、そのライブを楽しむにはしっかりとライフしていかなきゃいけない。まさに、いまわたし達は生き抜いていかなきゃならない。

MCで「鼻血出さないように(おとはす)」「鼻血ぶー、な曲(あんぬちゃん)」と紹介されて始まったジョニー・ウォーカー。鍵盤の音色が心地よくクールかつ大人のムードたっぷりな世界が広がる。そして続く「シスター」がまた良い。スタンドマイクを使ったしっとりとした前半からハンドマイクに持ち替えた後半でバンドのグルーヴ感が増す構成が素晴らしい。この曲の新たな一面をまた見せられたような気がする。

「テレフォニズム」のアウトロ、良いよねー。なんて思っていたらそこからの展開がアツかった。

バンドアレンジの「ファンキー・バット・シック」を中盤に持ってきたのも新鮮で、この時点で既に身体中を沸き立たたせる準備が整っていた。

そして…。

「ライク・ア・ゾンビ」から「アイム・アフター・タイム」のメドレーだけでも脳汁出っ放しなのに「すききらいアンチノミー」ですよ!お父さん!ステージにいるあんぬちゃんに手を差し伸べながら多分わたしの顔は緩みっぱなしになっていたと思う。

そして「ダンス・ファウンダー」へと繋がる流れはもはや最終兵器。激しく踊りまくるほどの空間もコールをする事も出来ないけれど、その限られた空間限られた環境の中でわたし達は思いっきり踊っていた。隣の人と肩を組んでラインダンスをすることは出来ないけれど、アドレナリンはドバドバだ。なにしろ我らがベスト4がとても楽しそうにしているのも、またわたしの心を昂らせる。

そうそう。「D!F!P!」とコール(もちろん実際にはしていない)する場面で、おとはすがお立ち台に駆け上がるんだけど、2回目だったかな結構ギリギリのタイミングになったシーンかあった。いや、実際にはギリギリではなかったのかもしれないけれど、わたしの目には離れた場所からお立ち台へ駆け上がるおとはすの姿、その俊敏な様子がとてもカッコよく見えたのです。

MCで奥津さんが言っていた。ヴァニラと醤油を合わせて美味しく頂くには、よく混ぜるのが大事だと。ネクライトーキーさんともバンドともそしてわたし達とも混ざり合ってひとつにならなきゃならん(大意)と。わたし達は今夜、みたらし団子になれただろうか。ピンク色に染まったガンダムを眺めながら、そんな事を考える。

明日はまた仕事だ。しかし、いまは仕事の話はしないでこの余韻に浸りながら東京テレポート駅へ向かった。

回る鏡の光る中、今日もウチらはステージに立つ。Perfume LIVE 2022 [polygon wave]1/10(月)&1/15(土)@ぴあアリーナMM 雑感。

12月には久々に旅行に行ったり、忘年会と称してプチ飲み会に参加したりと少し気分も緩んでいたが、年明け早々にまた状況は変化し、わたし達は道標を見失いそうになっている。

f:id:mousoudance:20220110154808j:image

Perfume LIVE 2022 [polygon wave]

8月に参戦したこのライブ。再演ツアーという事でほぼセトリも演出も大きく変わらない事は予想できるし、アマプラで配信も始まっている。

しかしそれでもわたしは参戦することにした。

1/10(月)成人の日であるこの日はあちこちで色んな現場があった。眉村さんとでんぱ組のツーマンやハルちゃんの生誕LIVE、そしてその他にも様々なジャンルの現場があった事だろう。しかし、身体はひとつしかない。そしてわたしの選んだ現場はここだった。

この日はA席で2階スタンドの右側。8月が左側のだったのでちょうど逆サイドの景色を見ることになる。8月の時がやや斜めだったのに比べると真横からの角度になっていて、出島ステージが近い。その分、ステージ上の演出を体感するにはやや難がありといえなくもないが、3人の姿はよく見える。

そして1/15(土)はSS席が当選したので正面(Lサイド寄り)の3階スタンド後方。3人の姿は遠くなったけれど、ステージの演出が良く観ることができる。これまでの2回とは全く別のライブ体験になった。

わたしがPerfumeのライブに初めて参加したのはJPNツアーで、その頃から光とそれが作り出す影に魅入られてきた。それから何度かライブを観てきたけれど、回を重ねる毎にどんどんと最高が更新されてきた。もちろん、今回もその例外にはならない。

開園前の手拍子もいつも通りだ。最後の影ナレから大きくなる手拍子、そして暗転からモニターに映し出される3人のデジタル映像で「嗚呼!Perfumeのライブが始まる」と気分が高揚していく。

8月にはいきなりPerfume以外の人間がステージに登場することに少なからず驚きもあったが、そんなイレブンプレイ・チームの活躍は今回のライブにおいて(もしかしたら今後においても)欠くことのできない重要なファクターとなっている。冒頭の不自然なガールMV再現はもちろんのこと、「ポリゴンウェイヴ」のパフォーマンスには目を奪われた。

Perfumeについて語られる時、〝最新のテクノロジー〟というのがキーワードになる事が多い。特にライゾマティクスがチームに加わってからはデジタル技術の革新性がパブリック・イメージとして定着してきている。しかし、当たり前だがステージでパフォーマンスしているのは生身のPerfumeだ。3人の身体こそが最新のテクノロジーであって、デジタルの裏にあるアナログな身体性がなければPerfumeのステージにはならない。アナログとデジタルが絶妙なバランスで融合しているのが、チームPerfumeのユニークさを作り出している。

特に「ポリゴンウェイヴ」の演出は出色だった。Perfumeの3人と共にキューブや球体など様々な多面体のオブジェが登場し、縦横無尽にステージ上を移動している。デジタル映像とシンクロするオブジェの動きはプログラミングで制御されていると思いきや、生身の人間によるアナログな動きだ。8月の初見時にも驚かされたが、改めてじっくりみても素晴らしい。

「TOKYO GIRL 」の東京夜景映像は3階スタンドから観るとやはり全然違っていて、深度が増しているという表現が合っているか分からないけど、没入感と同時に不思議な浮遊感があって、馬鹿みたいな感想になるけど3人がホントに三角形のステージに立っているように見えた。

「マカロニ」もシンプルだけどとんでもない事をやってる演出のひとつ。影と光を操るチームPerfumeのある種の集大成と言いたいくらい。

基本的にセトリは初演と変わってないけれど、ポリゴンウェイヴの後だけ「アンドロイド&」に入れ替わっていて、いやこれがまたカッコいいんですよ。10日の時にはまだ曲を聴き込んでなくて曲名が直ぐに出てこない感じだったけれど、スリラー・リスペクトな踊りもよく見えていたし、15日には上からの視点で全体が見渡せて曲のカッコよさも倍増した体感。

そういったバッキバキのカッコよさと同時にユルサとの落差もまたPerfumeの魅力だ。MCやP.T.A.コーナーに全力で臨む事も大事な楽しみ方だ。この二日間ともあ〜ちゃん絶好調で、もちろん声出しは禁止されているのだけれど、思わず笑い声も溢れてしまう。Perfume(曲)の振り付け(ぐるぐるゆー)をやるところで「この曲、知らんじゃろ。家族しか知らん」というあたりにファン心をくすぐるあ〜ちゃんの凄みを感じたり。

終盤は踊りまくれないのがもどかしいくらいのアッパー系のセトリが続く。狭い座席で隣の人にぶつからないように注意しながら可能な限り身体を動かす。これまでの2階スタンド左右からの眺めと3階スタンド正面からの眺めの大きな違いを感じたのは「GLITTER 」だった。飛び交うレーザーを全身に浴びて、目の前に広がる景色はまるで2001年宇宙の旅』のスターゲイトのようであった。その光の集合の中にPerfume3人の姿があって、あの時わたしは軽くトンでいたと思う。このシーンだけで白飯5杯はイケる。それくらい2階スタンドと3階スタンドの景色は違うものだった。

「MY COLOR 」で締めくくられるライブはやはり良い。初めてあ〜ちゃん「一回しかやらんけぇね、良い?せーのッ!!」ってやられた時のインパクトは10年経っても色褪せない。Perfumeからのエンディングの挨拶をされているかのような高揚感と終わりゆくライブへの寂しさが入り混じり独特の感情が身体中を駆け巡る。

上から見ていると曲間で一瞬映像が途切れて素の真っ黒なステージが現れる瞬間がある。色鮮やかでクールな映像がフッと消えて現実が現れるというか、今目の前に広がっている光景のリアルとフィクションの境界線が歪むというか。そんな感覚があった。

最後のMCでのっちは言った。「わたし達のライブが明日からの皆さんの生きるヒントになれば」と。再び道標を求めているわたし達には心強い言葉だ。Perfumeのライブを観た時に感じるデトックス感。自分の中にある澱みのようなものがスーッと浄化されていく感覚がこの日もあった。「軽やかに柔軟に」これからの生活を生きていく意志のようなのが生まれたような気がする。

最後の曲を終えると3人は何もないステージを去っていく。暗がりの向こうへ歩むその背中を見送りながら、これが「未来へ歩く」という事なのかもしれないと思いながら、手先に魂を思いっきり込めて拍手をしていた。see you at next stage 出来ることを願いながら。

 

メモ

MCを中心とした印象的なシーンを。

10日

  • チケット争奪を巡る夫婦の一人芝居をするあ〜ちゃん
  • 高額チケットについての「ホンマね、マライヤ・キャリーか!来日か!言うて」というあ〜ちゃん
  • 「拍手とか適当にしとると、次チケット当たらんよ」
  • かしゆかはドラマBBA
  • 清原果耶はワシが育てた

15日

  • ステージ上のツアーロゴを使ったトラックアート的遊び
  • 内外内内について「もうね、内と外という表現がおかしいのはウチらもわかっとる」
  • P.T.A.コーナーの「ゆっきダルマ」からの「鏡餅」からのまさかのTSPS。「今、みんなが揺らしてるのはミカンです」
  • 「TOKYO GIRL 」で自分の鼻を突いたというあ〜ちゃん。「鼻、ある???って涙目になっとったんよ」

雄鶏の鳴き声で夢から醒める。【映画】『クライマッチョ』雑感。

f:id:mousoudance:20220114204705j:image

映画『クライ・マッチョ』日本版予告 2022年1月14日(金)公開 - YouTube

『クライ・マッチョ』

もはやイーストウッド作品を鑑賞する事は人としての嗜みのひとつ、と言いたくなる。その画面にケレンはないけれどショットのひとつひとつに気品すら感じる。ロードムービーであり、西部劇であり、そしてドキュメンタリーでもあった。

『運び屋』と比較すると、ストーリー展開や主人公のキャラクターにやや現役感に欠ける気がしないでもないけれど、〝枯れ具合〟すらも魅力に変えてしまう存在感は流石という他ない。銃声が一切鳴らない今作だけれど、一瞬だけ「go ahead,make my day」というそうな迫力を見せた箇所、あそこベストショットではないかしら。

強さ=マッチョの体現でもあるカウボーイの老いた行く末は、イーストウッドのパブリックイメージとも重なっていく。イーストウッド演じるマイクは少年ラファエルが指摘するまでもなく弱々しい老人となっている。背中は丸まり、弱々しいパンチを繰り出す姿は、イーストウッドのリアルであり、わたしたちにノスタルジーを感じる隙を与えない。目の前にゴロリと転がっている91歳の人間の姿がそこにある。

一方では、ふらりと入った酒場で訳ありの女主人に匿われる、なんて西部劇のパロディにしか思えないが、それはイーストウッドの歴史の一面でもある。そういった西部劇のマスターピース、年齢を重ねたスターの栄光が再構築されていく過程には静かなカタルシスがあるし、一歩間違えればアップデートされていない〝マッチョ〟達の無様さに終始してしまいそうになるのを絶妙なバランスですり抜けている、という印象を持った。

それにしても動物までも名演をしてしまうのはどういう事なのだろうか。馬たちの佇まいをみているだけで心がデトックスされる感覚は、なかなか得難い体験だ。そして雄鶏、我らがマッチョだ。名優過ぎる。マイクには車を盗まれても走って追っかける力はもう、ない。力強いパンチで悪漢を倒すことも出来ない。それらは全て雄鶏マッチョの仕事だ。

失われた人生のピースを埋めようとするマイクの姿は、ストレートにわたしたちの琴線を刺激するけれど、なかなかそううまくいかないのが人生だ。楽園のようなメキシコの街での暮らしは、奇跡やファンタジーで埋め尽くされている。用無しとして扱われたマイクが、仕事を与えられ〝現役〟として求められる展開に違和感を抱いたとすると、それは正しい。

何故なら、これはマイクの夢だからだ。雄鶏の鳴き声で、たたき起こされるまでの。